その日暮らしと日進月歩/2004-11-19

Last-modified: 2005-01-16 (日) 08:18:12 (7034d)
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ふと言葉になったこと

  • なんで方向転換したか
    中・高校生の頃から大学の途中にいたるまで、俺はこんなことを考えてました。
      「教師になったろー。俺がやらんかったら誰がやるわけ?」
    ぐらい(笑

    これが天職とまで考えていた俺だったけど、大学のとある時期から「俺がやってどうする?」と迷いを持つようになった。
      「なんでやめるわけー?」
      「あんた絶対向いてると思ったのに」
    なんて言葉をかけられるたびに、一言で会話を収めることのできるような返事でまとめてきたわけだけど。

    女性関係を皮切りに始まった、俺の「こりゃ人としてダメくない?」という疑問。
    それを発端にして見えてきた、俺に教師なんぞつとまらんという背景。
      「もう今は先生なろうと考えてないのか?なんでだわけ?」
    と聞かれるたびに、ほんとの部分を一言では表現できないがゆえに、要素のうちの一つのみをとりあえず強調して表現して凌いできた。
    こうして俺に声を掛けてくれる人はみんな心優しい人で、「原因を解決できるものならしてあげたい」と心を砕く。
    で、発端が女性関係だったからか「じゃ、女性関係解決できればまた元気なお前に戻るんちゃうか?」みたいな展開は必ず通過するもので。
    それは発端なだけだって(笑

    そうこうしてるうちに、根本的な背景に当たる部分が少し言葉になってきた気がする。
    こんな感じかな。

     

    心定まらないことを、定まらないままでも凝視し続けるようにつとめていて。
    そうすると心定まらないことは日々増えていき、しかし凝視を続けるからには簡単に結論付けることなどできようはずもなく。
    そうして膨らんでいく「迷い」に似た混沌としたものを一つ一つ大切に心の引き出しにしまっていく。
    そんな作業を日々続けているのが俺なわけで。

    しかし俺が思うに。「まっとうな社会人」に求められている最も重要な要素は「もはや余計な迷いがないこと」ではなかろうか。
    小・中・高という教育段階にある「人」は、特殊な状況を除いて、概して「勝手に育つ」もので。
    その「勝手に育つ子供達」に「揺るぎなく迷いのない大人」を日々の暮らしの中でぶつけてあげることで、その子らはそれと戦うなり感銘を受けるなりして育っていくわけで。

    その「揺るぎなく迷いのない大人」をぶつける役目を担う「教師」というポジションに、迷いだらけの俺が今なってどうする??
    というのが、俺が方向転換をはかった最大の要素であるな。
    そしてたまたまその疑問にいたるきっかけになった最も大きな要素が女性関係だったわけだね。

    常に迷いと向き合うことをつとめている俺だから、それなりに人のことで気がつく部分があって。その点で「優しく」なることはできるようだが。
    しかし様々の迷いを胸の内にはらませていることは、もちろん行動の節々にも現れてくるわけで。
    そんな常に迷いを含んだ行動に、人が強く感じ入ることなど基本的にないのだ。
    そして人が強く感じ入ることとは、ものの善し悪しはどうあれ「迷いのない行動」なのだ。

    迷いなく何かを演じきってる時の俺に好印象をいだいてくれたとしても、その演じてる場面が終われば俺はまたいつもの「迷い子」に戻るわけで。
    「そんな迷いだらけの俺だってことをあなたは知ってて好印象を抱いているのか?」
    という不安から、あからさまに期待だけの視線を簡単に受け入れることはできないんだ。

     

    俺の事を「優しい」と評価してくれる人がいてくれても。
    ここで評価されてる「優しさ」とはきっと、俺が「人の迷いを知っている」がゆえの優しさで。
    しかしそれは、ことを切り開いていく「揺るぎない力強さ」とはまったく別物で。
    さっきゆった、ものの善し悪しはどうあれ「迷いのない行動」
    俺がそこに至るまでは、おそらく俺の状況はこれからも変りはしない。
    いけるのか?
    いつ潰れてもおかしくない、いや、既に潰れているといっても違和感のないこの俺が。

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